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親が死んだ

 

親が死んだ。先月の22日のことだった。

私は1月末から2月14日まで受験のために東京に滞在していて、福岡空港に着いた時にはまさかその一週間後に父親が死ぬなんて思っても見なかった。

元気な父親(とはいえもうかなり体調は悪かったのだけど)を見た最後の時は、東京に向かうときに福岡空港まで送ってもらった時だ。

そのときも父は空港で私に怒鳴り散らし、ほぼ喧嘩別れのような感じで私は逃げるように搭乗口に向かった。

行きの車内で、徳永英明のカバーが流れていた。するとその雰囲気に酔ったのかお気に入りのサングラスを身に着けた父親は「頑張って来いよ」と私に握手を求めた。急に父親ぶりやがって、気持ち悪い、と私は思いながらもここで反抗でもしようものなら車内から降ろされ自分で空港に行けと言われかねない雰囲気だったので、私は、とりあえず手を差し出した。ぎゅ、と一方的に握られた。父の身体に触れたのは随分久しぶりのことだった。

それから空港に着くと、父は体調の不良に苛立ちはじめ、空港でのアレコレに不慣れな私、そして父の思うとおりにことを進めない空港のスタッフに怒鳴り散らかした。いつもどおりの父だった。このまま東京の大学に行けるならせいせいすると思った。

 

そして二週間の受験を終え、その旨を父にメールすると、「今入院している」と返事が来た。ふうん、ちょうどいいや、友達でも呼んで泊まらせよう。私は気落ちするどころかむしろうきうきした。東京で手厚く歓迎された後にまたいつもの怒鳴られる生活が始まるのだと思うと、それが入学までの一か月半だとしても、気が重かったのだ。

父が病院に顔を出せというので顔を出すと、見る影もないほどにやせ細っていた。あしたのジョーの減量した力石徹のようだった。

もともと大柄だった父は、ここ最近でずいぶんと体重が落ちたようだったが、それでもなんというか、まだそれほどやつれたという印象は抱かなかったのだが、今回はさすがに驚いた。頬はげっそりとこけ、顔の肉が落ちたからか妙に目つきがぎらついていて、記憶の中の父とは似ても似つかなかった。正直、後ろから鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

その衝撃の再会の翌日、私は親戚一同と父の病状について説明を受けた。

もう退院できないということだった。そしてもう長くないだろうと。

3月いっぱいもつかどうかという話だった。

 

しかし、実際はそれから三日で父は意識がもうろうとし、一週間で死んだ。

その告知から私はよくわからないまま、涙だけが決壊したダムのように溢れ続けた。悲しくて悲しくて悲しくて仕方がなく、漠然とした恐怖におびえ続け、あまり眠れない日々が続いた。明日はもっと悪くなっているんじゃないか、もう死んでしまうんじゃないか。誰もいない家には食いかけのお菓子や録画予約や脱ぎ散らかった服などが帰って来ない主を黙って待ち続けていた。

不毛すぎる。この録画予約も、これから先の予定を記したカレンダーも、目に入るたびにどうしようもない虚しさが襲ってきた。だってもう二度と父はこの家に帰ってくることはないのだ。不毛すぎやしないか。

私は東京の大学に行きたくてしかたがなかった。父親から離れたくて仕方がなかった。

空港までの車中で父は「ゴールデンウィークに帰ってくるなら早めに飛行機はとっとけよ」だなんとか言っていたが、ゴールデンウィークまで生きてから言えよ、そんなこと。家を帰らないのと帰る家がないのとでは全然違う。

 

とりあえず私は未成年なので成人するまでの2年間は叔父に後見人になってもらうことになった。叔父とはほぼ一年に一度会うか会わないかの間柄で、何も知らないし、むしろ嫌いなぐらいだった。今では嫌いとまではいかないがやはり苦手だ。

今日は司法書士と話し合って、これからは家庭裁判所に呼ばれたりする日々になるらしい。