読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

なぜ死んでからしか許せないのか

 

先日、実家の郵便受けにたまっていた手紙類が寮に叔父から送られた来た。

大半は成人式の振袖のカタログだとかリクルートスーツのカタログだとかだったが(〇〇様(私の名前)とご家族様へ と書かれているのが笑えた。)と、父親が死んだホスピスから手紙が届いていた。

内容は父親が死んで3か月経ったがどうか、私たちは父親を看取れて光栄でした、みたいな、いわゆる励ましの手紙というか、アフターケアというか……。

こういうサービスは患者の遺族全員にしているのだろうか?

ホスピスに入院している患者は遅かれ早かれ全員必ず「死」は回避できない患者なわけで、看護師さんも一人ひとりの遺族にいちいち死んで何か月経ちましたねなんて手紙を出すのは結構大変だろうな~と思った。

 

最近、ようやく環境に慣れてきた。

寮の隣人とはちょっと揉めているし部屋の外はあまりうろつけない状態だが、大学では友人もできたしわりと楽しく生活することができている。

インターネットでも友人のような存在は割といて、結構気安くしゃべっている。Twitterで”つぶやき”という形でコミュニケーションをとっているから、厳密にいうと会話ではないけど。

外で言うこと、内で言うこと、と自分の中身を分けていたら誰にも言えないことが全然ないことに気付いた。そのために誰にも言えないことができると胸やけしたような妙にムカムカした心地になり落ち着かなくなる。

 

このブログは元々そういう、公私どの場でも言えない一時的な感情をぶちまけるためにつくったものだから、これからもそのために利用していこうと思う。

 

大学で友人と騒いで、帰宅してSNS上で騒いで、一般的な物差しはおいて置き、私は今結構楽しく毎日を過ごしていると思う。親がいないとか、お金があまりないとか、一般的な物差しでは割かし不幸な大学生だが、刹那的な幸福は毎日満ち足りている。

幸せだ、とすら思う。

 

でもたまに、というか割と頻繁に、就寝するために電気を消してTVも消してスマホもロックをかけたとき、とてつもなく「一人」ということを実感させられて、涙が止まらなくなる。すべての社会を断絶したときにこの現象に陥りやすい。

大学で遅くまで作業して、寮の夕飯にも間に合いそうになくて、駅付近のガストで家族連れに囲まれて一人でチーズインハンバーグを咀嚼するとき。

休日の夕方、飲み物を買いに誰もいない道を歩いているとき。

一人であるということを思い出して、自分でもよくわけがわからないまま泣きそうになる。

 

父親が死んで丸4か月、今月で5か月目に突入したわけだけど、なにも実感がわかない。これが積み重なってそのうち父親が死んだのも10年前なんかになるんだろうか。なるんだろう。

父親が生きているときは、父親との生活が苦痛で仕方なくて、本当に毎日がつらかった。幸せだと思うこともあまりなかった。

おかしな話だが、メンタルの部分だけで見ると今のほうがよっぽど楽だし、自由で、快適だ。これは本当。

 

けれどなんというか、思い出すのは本当に些細な日常の出来事ばかりで、嫌なことは頭の中に薄い靄がかかったみたいに特に何も浮かばないようになった。

幸福な記憶、というわけではない。あのときレストランでこれを食べたな、とか、クリスマスにこれを買ってくれたな、とか、スーパーで買い物するときについて行って週刊誌を読んだな、とか、本当に些細な、生活の一瞬みたいなことばかり鮮明に思い出して、そしてその当時はそれに対して幸せとか不幸せとかなにも感じなかったけど、今ではなぜかその、本当に些細で、とりとめもなかった日常が、ものすごく、かけがえのなかったように感じる。

友達が来た日にマグロを食卓に出したな、とか、手巻きずしをしたな、とか、パスタ作ってくれたな、とか、あれ買ってくれたな、あれ好きだったな、あの料理また食べたいな、とか、そういう、すごく平凡なことを思い出しては、これからの父親のいない人生ではその日常はもう二度とないのだと、気付き、どうしようもなく悲しくなって、涙が止まらなくなるのだ。

あの毎日は、幸せだったのかもしれない。不幸なこと、苦痛なことで埋め尽くされていたけど、生活の中の一瞬一瞬はたしかに愛があったし、その一瞬は幸せだったんだな、と今更になって思う。もっと大事にすればよかった。

でもあの毎日に戻ればそんな一瞬を大事にする余裕もなくなる。でもあの一瞬一瞬が、今になって、幸せだったんだ、と気付いてしまい、なんでそのときに気付けなかったのか、と思ってしまうのだ。今更気付いたところで父親はもう死んだ。礼も文句も言えやしない。

たとえば親が子供に誕生日プレゼントを買い与えたり、毎日夕飯を作ってやることは、私のまわりでは「フツ―」のことで、だからことさら感謝も感じなかったし、むしろ父親に対しては私のまわりの家族にとっての「フツ―」が欠けていたときに腹を立てていたことが多かった。

でも、フツ―なんてないのだ。そういう些細な、小さな毎日の生活だって、価値があって、それに気付くのは、必ずそれがもう二度と手に入らなくなってからなのだ。

当たり前だと思っていることだって、水準をどんどん下げれば幸福や贅沢だし、結局当たり前や普通なんていうのはある種の日常や人生への甘えでしかないのだと思う。

 

悲しい。お父さんとの毎日はクラスメイトの子と比べたらボロボロにかけていたけど、そのボロボロの毎日の中にも愛はあったし幸せはあったのに。なんで気付かなかったんだろう。なんで今更気付くんだろう。

気付けなかった罪を、毎日のもう当たり前じゃない生活の中で、当たり前だった幸福の味を思い出しながら、背負っていくしかないのだ。

本当にふとした瞬間に、父との日常を思い出す。なんで死んでからしか思い出せないのか。

何もない毎日だったけど、よくみればなにかがあったのに。